鹿児島大学工学部 先進工学科 化学生命工学プログラム環境化学研究室

研究内容

概  要

精密質量分析、多段階質量分析、イオン移動度質量分析、多変量解析、量子化学計算、分子動力学計算を組み合わせて水環境中の未知物質を探索し、構造推定・同定する技術の開発・体系化に取り組んでいます。未知物質の例として、農薬が水環境中で光分解、生分解、加水分解などを受けた「変化体」、浄水場で塩素処理を受けた「消毒副生物」、水道原水中の「生ぐさ臭原因物質」などを挙げることができます。網羅分析(non-target screening)と呼ばれます。

以上は、試料の中に含まれている物質の構造が未知な場合ですが、これとは異なる意味での未知物質の探索研究も行っています。すなわち、含まれている可能性がある物質はすべて構造が既知な物質ですが、その既知物質の中で実際にどの物質が含まれているのかが分からない状態での網羅的探索研究です。ただし、興味のある物質を予め定めておく必要があります。このため、ターゲットスクリーニング(target screening)と呼ばれます。可能性がある物質を1物質ずつ測定して確認すればよいのですが、物質数が膨大な場合には、可能性を絞り込む測定が有効な場合があるためです。当研究室が運営の一部を担っている化学物質探索システムは、ターゲットスクリーニングのためのシステムです。


研究概要 研究概要
化学物質探索システム

化学物質探索システム

未知汚染物質の分子式推定

質量分析では、物質をイオン化してから測定する必要があるので、実際に検出される物質は、測定条件により、陽イオンまたは陰イオンにイオン化されて検出されます。検出されたイオンには、13Cなどを含む安定同位体イオン、ナトリウムイオンが付加した付加体イオンなど、実質的に同一物質のイオンが数多く存在するため、精密質量分析結果に基づいてそれらを一括りにします。

表(精密な原子量の例)をご覧ください。中学や高校では、酸素の原子量を16と習うことが多いと思いますが、精密には15.4499です。このように、すべての元素の原子量は精密に定まっているため、精密質量分析結果に基づいてそれらを一括りにすることができます。一括りになったイオン群は、天然存在比がもっと多い同位体イオンで代表させます。この代表イオンを、コンポーネントと呼びます。例えば、図(コンポーネント解析の例)に示すように、分子内に13Cを1個含むイオンであれば、13Cを含まないイオン(すべての炭素原子が12Cであり、天然存在比が最大になる安定同位体イオン)よりも1.0034 大きな測定値を与えることに基づいて判断します。なお、視点を変えると、このコンポーネントは、炭素を含むことが分かります。

表:精密な原子量の例 精密な原子量の例
図:コンポーネント解析の例 コンポーネント解析の例

高分解能質量分析計などを用いて分析すると、1つのサンプルから数千~数万物質が検出されることがあります。検出された物質の中で、試料の性質を支配しているような物質のピークを特定します。多変量解析という方法を用いますが、詳細は割愛します。

安定同位体イオンや付加体イオンをコンポーネントに一括りにしても、水環境サンプルを分析すると、数千~数万物質が検出されることがあります。このため、例えばサンプルの毒性強度を決定しているような、キー汚染物質を探索する必要があります。われわれは、主成分分析、部分的最小二乗回帰、直交潜在構造投影分析、相関分析、重回帰分析などの多変量解析により探索しています。

探索によりキー汚染物質のコンポーネントが定まったら、天然同位体パターン分析により、そのコンポーネントを構成する特徴的な元素の種類と個数を推定します。ここで言う特徴的な元素とは、安定同位体の天然存在比が大きい元素で、特徴的な同位体イオンを与える元素を指します。詳細は、図(安定同位体イオンのピーク強度比の解析例)をご覧ください。図中のAM+NおよびAMは、表(安定同位体の天然存在比の例)をご覧ください。

以上のように未知物質を構成する特徴的な元素の種類と個数を推定した後、コンポーネントの化学式を推定します。化学式は、精密質量分析結果に基づいて推定します。すなわち、各元素の質量は整数ではなく、精密な値(精密質量)が求められていることを利用します。精密質量を用いる利点を例示すると、CO、N2、CH2N、C2H4の整数分子量はすべて28ですが、精密質量はそれぞれ27.9949、28.0062、28.0187、28.0312となり、すべて異なることから、測定結果から区別することができます。区別するだけでなく、化学式を推定することができます。その例を図(化学式の推定結果の例)に示します。この例の場合、イオンの式量(正確にはm/zであり、エムオーバーズィーと読みます。1個のイオンの質量(kg)を統一原子質量単位(=1.660538782(83)×10-27kg)で除し、さらにイオンの電荷数で除した無次元数で、単位はありません)が262.0297ですが、このm/zになるためには、炭素、水素、窒素、酸素、リン、硫黄の数が「それぞれ何個の組み合わせでなければならない」と決めることができます。実際には、測定誤差が含まれているため、イオン式の候補が複数個得られる場合がありますが、先ほどの同位体の解析に基づけば、分子量数百Da程度であれば十分に化学式を推定することができます。この例であれば、炭素数がおおよそ9個、硫黄数が1個と分かるので、[C9H13NO4PS]が正解ということが分かります。その他にも、窒素ルールや不飽和度に基づいた確認、異なるイオン化極性での確認などを経て、化学式から分子式を推定します。当研究室では、電子1個の値に相当する0.0006 の差を精密に測定して分子式を推定します。

1) 高梨啓和、上田岳彦、精密質量分析計を用いた未知物質の分子式推定、水環境学会誌、39(10)、360-364、2016.

図:安定同位体イオンのピーク強度比の解析例 安定同位体イオンのピーク強度比の解析例
表:安定同位体の天然存在比の例 安定同位体の天然存在比の例
図:イオン式の推定結果の例 化学式の推定結果の例

未知汚染物質の構造推定と同定

分子式を推定した後には、構造を推定します。環境変化体のように、未変化体である親農薬の構造が分かっている場合には、その構造に基づいて検討します。われわれは、親農薬のような物質をリード化合物と呼んでいます。リード化合物の構造と未知物質の分子式から想像した結果を、われわれは一次推定構造と呼んでいます。

一次推定構造が分かる場合も分からない場合も、未知物質のイオンを質量分析計の内部で開裂させ、開裂により生成した断片イオン(プロダクトイオン)の精密質量を測定します。これを、多段階質量分析と言います。例えば、開裂前後のイオン式の差(中性ロス、またはニュートラルロスと呼ばれます)がHNO2であれば、未知物質はニトロ基を有していると推定できます。リード化合物がある場合には、同様の測定をリード化合物に対しても行い、結果を比較することで、リード化合物と共通の部分構造を推定することができます。例えば、メチルグアニジンのプロトン付加体イオンが共通して観察されれば、リード化合物のメチルグアニジン構造を未知物質が有していると推定できます。リード化合物がない場合には、典型的なプロダクトイオンやニュートラルロス(われわれは、それらをユニークマスと呼んでいます)が観察された場合に、どのような部分構造が予測されるかを検討します。情報が不足する場合には、プロダクトイオンを質量分析計の内部でさらに開裂させ、同様の解析を繰り返して構造を推定します。これらの検討は、各イオンが閉殻イオンか開殻イオンかを確認しながら行う必要がありますが、割愛します。以上の構造推定は、これまでに科学雑誌で公表された様々な開裂反応の典型例を体系化した経験則を用います。われわれは、この経験則をGeneral Fragmentation Rules(GFR)と呼び、質量分析学の基礎と考えています。

構造推定が不十分なときは、異性体を判別します。この判別技術は、イオン移動度質量分析と分子動力学計算を組み合わせた新しい技術で、現在も開発が進んでいます。イオン移動度質量分析とは、イオンの運動量移行断面積(Momentum Transfer Cross Section, MTCS)を測定する技術です。MTCSは、衝突断面積(Collision Cross Section, CCS)とも呼ばれます。希薄な窒素ガスなどで満たした容器内にイオンを誘導して静電場を印可すると、イオンの極性と逆の極性の電極に向かって一定の力が働きます。一定の力を受け続けて加速すると、得られた速度に応じた抗力を窒素ガスから受けます。やがて、電極から受ける力と、緩衝ガスから受ける抗力が釣り合って、一定速度で運動するようになります。ちょうど、質量分析計の内部で、イオンのスカイダイビングを行っているようなものです。スカイダイビングするときに、体を開いて全身で空気抵抗を受けると減速し、高飛び込みのように頭から落ちると空気抵抗が減って加速しますね。原理的に、緩衝ガスからの抗力を受ける断面積を測定できることが分かると思います。この現象を、コンピュータの仮想空間内で再現することも可能です。すなわち、実験とコンピュータシミュレーションを組合して、未知物質の形を判別しようとしています。

このように未知物質の構造を推定した次は、観察されたプロダクトイオンやニュートラルロスの生成反応を量子化学計算により追跡(図:固有反応座標計算(遠隔水素転移反応による脱水))し、推定結果の妥当性を判断します。この技術はある程度確立された技術ですが、職人芸的な部分が残されています。われわれは、それを自動化して、多くの環境研究者に利用してもらえる技術にすることにチャレンジしています。

しかし、残念ながら、いくら妥当性を判断しても推定の域を脱することは困難であり、同定するためには標品と実環境から検出された物質の”測り比べ”が必須です。測り比べる技術を、コクロマトグラフィーと呼びます。ただし、どの物質とコクロマトグラフィーを行えばよいかわからければコクロマトグラフィーは行えません。したがって、構造推定の技術は、環境化学において重要な技術と考えています。

図:未知物質の構造推定のワークフロー 未知物質の構造推定のワークフロー
固有反応座標計算の例

固有反応座標計算の例(遠隔水素転移反応による脱水)
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